インタビュー
2020/4/6

宝生流シテ方和久 荘太郎さん

夢枕の大盗賊に捧ぐ鎮魂の舞台— 第7回 演能空間に向けて —

5月に自らが主宰する「演能空間」の第7回公演を行う宝生流能楽師の和久荘太郎さん。上演される「熊坂」は、美濃の国の伝説的盗賊・熊坂長範を主人公とした物語である。昨年9月の第6回公演で上演された「烏帽子折」も同じ故事を題材としており、熊坂長範が元服を迎えた若かりし源義経(牛若丸)に討ち取られるまでを描いている。となると、続編としての今回の公演と考えたくなるところだが、当初は予定になかった公演なのだと和久さんは言う。

昨年9月の「演能空間」を終えたばかりの和久さんに起こったある不思議な出来事。それが、和久さんをこの公演に導くことになったのだ。

和久 荘太郎さん

1974年生まれ。横浜市生名古屋市出身。東京藝術大学音楽学部邦楽科能楽宝生流専攻卒。大学在学中、宝生英雄18世宗家の内弟子となる。2005年、宝生英照19世宗家の許しを得て独立。

和久 荘太郎さんの写真

熊坂長範を弔う公演

前回の公演は「烏帽子折」。大曲ならではのご苦労もあったようです。

和久「烏帽子折」というのは、数ある能の曲目の中でも恐らく最も登場人物の多い曲で、後半には大人数の立衆が牛若丸と戦う派手な斬組があります。その「かけり」と呼ばれるお囃子の間は、流派によって決まっている型の範疇の中で自由に作っていいことになっているのです。今回の場合、座長である私が考えるわけですが、牛若丸役の息子にも教えなければならないから、まず私に迷いがないように、予め一人で型を作り上げておかなければなりません。考えた型を一人八役ぐらいやりながら息子に教えていき、息子ができるようになったら、役者を集めてやってもらいます。今回は後輩ばかりだったのでお願いしやすかったのですが、何度も何度も集まってもらって、いろいろと注文を出しながら作り上げていきました。

そんな大変な曲でもあったし、これを以て「演能空間」は二年くらいお休みするつもりでいたので、会の冒頭挨拶でも「申し訳ないですがしばらく休みます」と宣言してしまいました。

ところが急遽、公演をやることに。

和久会が終わって3日後の夜のことです。今思い出しても背筋が凍る思いですが、私の夢枕に熊坂長範が立ったのです。そして私に向かって拝むのです。顔は普通のおじさんなんですが、私のようでもある。「烏帽子折」の最後、熊坂長範は牛若丸に斬り倒されますが、「仏倒れ」という危険な型でやりました。私も熊坂長範になりきって「南無三」と念じながらドーンと倒れましたから、打ち所でも悪かったのかと…(笑)。

夜中の2時頃でしたが、あまりにも怖かったので飛び起きてパソコンで演能空間の企画を作り始めたんです。「供養しろ」ということだと分かりましたから。役者も前回斬られた面々を地謡に揃えて、お囃子方も同じメンバーでやろうと。本当はすぐにでもやりたかったのですが、役者と能楽堂のスケジュールを調整してこの日程になったわけです。だから今回の公演は「やらされている感」が強いですね(笑)。

前回の公演「烏帽子折」の「仏倒れ」

和久さんはおもむろにスマートフォンを取り出して写真を見せた。無造作に石が積み重ねられたような墓碑の写真だ。

和久熊坂長範のお墓に行ってきたんですよ。岐阜県大垣市にあるんですが、調べあてたその寺に行っても誰もいないし、入り方も分からないんです。電話をしても誰も出ない。ようやく入り口を見つけて中に入ることができたけれど、本に書いてあったような立派な五輪の塔は見つからないんです。諦めかけた頃に、住職さんから電話がかかってきた。事情を話して墓の場所を訊くと「無縁仏の集まりがあって、その中にお団子が3つ乗っかったようなものがあります」と言うんです。まさにその時、私の目の前にあったのが熊坂長範の墓。知らないうちに引き寄せられていたんです。

熊坂長範の墓

能との出会い

和久さんには「生粋の能楽師」という印象があったので、外から能楽の世界に飛び込んだと知って意外に感じました。どこで能と出会ったんでしょうか。

和久私の父は証券マンで能楽とは無縁の家なんです。幼い頃から剣道や居合といった武道は習っていました。でも剣道ってスポーツ剣道なんですよね。本当に斬れる剣の使い方ではない。そんなことに疑問を感じていた少年でした。当時は父親の転勤で名古屋に住んでいたんですが、中学生の時、居合の先生から能のチケットをもらったんです。「能には、武道に役立つ身体の使い方がたくさん隠されているから観ておいで」と。チケットを握りしめて一人で熱田神宮の能楽殿に行きました。そこで観たのが観世流の「道成寺」。乱拍子における小鼓の裂帛の掛け声とシテの「ハッ」という気合…、これは武道と同じだと膝を打ちました。本物の「斬れる」動きなんです。本当に感動しましたね。その時にいつか能の稽古がしてみたいと思ったんです。

それからテレビで友枝昭世先生の仕舞入門を見たりして独学を始めました。高校に入ったらなんと能楽研究部があって、これは運命だと。それで能をやり始めるわけなんですが、舞は好きだけども謡は嫌いだったんです。だって恥ずかしいじゃないですか(笑)。お囃子の稽古もやることになって、その中で大鼓にハマったんです。大鼓の気合ってまさに武道的ですよね。「これだ!」って思って、大鼓方になろうと決めた。それで河村総一郎先生に入門して、「プロになりたい」と言ったら「ダメだ」と言うんです。「お前は才能がないから」と言われるのかと思ったら「需要と供給のバランスが崩れるから」って(笑)。「お前はシテ方になれ」と。
そんなことがあって大鼓方は諦めたんだけど、シテ方にはなりたくなかった。謡わなきゃいけないから(笑)。でもある時、部活の顧問の先生にも「ワックン、シテ方にならないか?」と言われたんです。おかしいですよね。

普通は学校の先生が能楽師になれなんて言わないじゃないですか(笑)。先生が言うには、東京芸大に行って、あわよくば家元に住み込みの内弟子として入り込みなさいと。後で分かったことなんですが、宝生流の辰巳孝先生のお声がけがあったようなんです。以前、部活の一環で名古屋の友好都市シドニーに仕舞を舞いにいくという機会があって、その時に辰巳先生の指導を受けたことがあったので、目をかけてくださっていたんですね。

私も転勤族の子どもだったこともあって、普通の仕事は嫌だと思っていたのでだんだんその気になってきて東京芸大を目指すことになったわけです。

その筋書き通りになったわけですが、内弟子の生活はどうでしたか?

和久内弟子の仕事は簡単なものでは留守番から車の運転、装束の管理といろいろ。そして家元の稽古を受けながら芸大に通うのですが、2年で単位を全部取れと言われていたので、寝る暇もありませんでした。建前上はね(笑)。遊びたい盛りですから悪い先輩に連れられて上野あたりによく繰り出しました。みんなで一つポケベルを持ってね。家元から呼び出されるとすぐに帰らなければならないから。

結婚が決まって独立するまで、12年も内弟子をやりました。これは宝生流では2番めに長い記録。宝生家では内弟子もみんな下の名前で呼び合う習慣があって本当の家族みたいでした。そのせいか自分が外から入って来たことを普段はあまり意識することがなかった。でも時々気付かされるんです。小さい頃からやってきた人たちに比べると私にはあまり役が回ってこない。でもそのハンデを自覚することが大事だったんですね。ある時、先代の家元とお酒を飲んでいた時に言われたんです。「お前は他のみんなとは違うんだ」と。その時は傷つきました。でも後になって、「人の何倍も努力しろ」と言われてたんだなあと気が付きました。

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