インタビュー
2019/12/28

観世流シテ方銕仙会馬野 正基さん

積み重ねたさきに見据える究極の舞台
「定家」の初演にあたって

馬野さんは、芸歴50年の能楽師。趣味は釣りと能面収集。

草履の音を鳴らして、羽織袴で現れた馬野さんの頭には、黒いハット。足元を見れば牛柄の足袋。ついでに言えば羽織紐はアンティークビーズでできていた。ちょっぴり強面なお顔立ちとは裏腹に、おしゃれ好きで、細部までこだわりの人なのだ。

今回、馬野さんには、2020年1月に控える「定家(ていか)」の初演という節目に際し、これまでの来歴をたどりながら、曲への思い入れやご自身の能楽観についてお話しいただいた。

馬野 正基

1965年京都生まれ。父及び故河村隆司、故八世観世銕之亟、九世観世銕之丞に師事。観世流シテ方銕仙会所属。

馬野 正基さんの写真

高校生のとき、運命の舞台に出会う

「オベーション?」

取材は、馬野さんのそんな一言で始まった。取材場所となった店にかけてある1本のギター、その銘である。

能楽師として多くの舞台に携わるかたわら、学生時代から芸大の仲間とともに長く趣味のバンド活動もしていた。レコード会社からスカウトされることもあったほど、楽曲作りと演奏にのめり込んでいたそうだ。

馬野さんは、1965年京都生まれ。能楽師の父のもと、幼い頃から舞台に立っていた。幼少期は父の厳しい稽古が苦手で、逃げたいと思うことも多かったという。家の方針はとにかく稽古第一に舞台第一。少年期に興味を持ったサッカーやラグビーなどのスポーツは、怪我をしたら舞台に立てなくなる、と禁止された。

馬野それでも幼い頃から能面を見るのが好きでしたし、笛や太鼓など囃子の稽古に行くのも楽しみでした。幼少期からずっと舞台に立たせていただいて、稽古や知識だけでなく、舞台で実際にお客様の目を意識しながら舞うことができたのも大きかったでしょうね。父の稽古は苦手だったけれど、舞台に立つことは楽しかった。

この道に進む決定打となったのは、高校生のときに観た舞台。先の師匠である観世静夫が八世観世銕之亟を襲名する折に、関西でも興行を行ったんです。当時からいろいろな人の舞台を見ていましたが、先代の舞台には「こんなにかっこいい能楽師がいるのか」と、全身を雷で打たれたような衝撃を受けて。絶対にこの人に習いたいと思ったんです。その後、東京藝術大学を経て、内弟子として観世銕之丞家に入りました。

能楽の家に生まれて、能楽師になることに反発心が全くなかったわけではない。しかし馬野さんの話を聞いていると、少年時代からすでに能楽に取り憑かれていたような様子もうかがえる。そのエピソードのひとつが「能面」だ。

奈良の骨董屋ではじめて能面を買う

馬野子供の頃、父の厳しい稽古が嫌で仕方なかったときにも、僕を能楽の世界につなぎとめてくれたのが能面でした。買ってもらった写真集を眺めたり、子方として舞台に出れば、その日の曲に使った面を見せてもらったり……とにかく能面を見ることが楽しみでしたね。

初めて面(おもて)を自分で買ったのは高校生のとき。春に訪れた奈良の古美術商で、とても良い尉面を見つけたんです。「これは!」と思って値段を聞いてみたら、思いのほか安かった。きっと普段は能面を扱わないお店だったんでしょうね。けど、そこは関西人なので交渉してまけてもらって(笑)。
とりあえず手付金としてそのときの所持金を全額預けて、家に帰ってすぐに父親に頭を下げました。翌日、残りの代金を握りしめて、引き取りに行きましたよ。

大人になってからも能面好きは変わらずで、良い面を見つけると愛車を売ってでも買ってしまいます(笑)。

馬野さん所有の能面

憧れた先人たちの老女物を見据えて

演じる楽しみだけでなく、長年能楽堂に通い、能を観る楽しみも培ってきた。そんな馬野さんには忘れられない舞台がいくつもあるという。

馬野先の師匠である八世観世銕之亟の「卒都婆小町(そとばこまち)」は鮮烈な印象とともに残っています。これは「老女物」に分類される曲で、99歳になった小野小町が主役です。ところが、先代の演じた99歳の小町は、背中も丸めずシャキッと伸ばしたまま。謡も、声は強いのに音は細くて、とてつもなく綺麗だったことを覚えています。老女物というより狂女物といった風情でした。

のちのち先代に聞いたら「普段の構えより背中を3センチだけ前に倒している」と。「この3センチが苦しいんだ」と言っていて、当時は半信半疑で聞いていましたけど(笑)。

2020年1月に上演する「定家」は、通常還暦をすぎた能楽師が演じることが多い曲だという。馬野さんは現在54歳。通例より少し早い段階でこの節目を迎えようと思ったのは、なぜだろうか。

馬野さまざまな舞台を見てきたなかでも、先代の師匠をはじめ、先人たちの演じた老女物がずっと憧れとしてありました。自分にとっても、年齢と鍛錬をさらに重ねた先に老女物がある。それを見据えると、「定家」はその前に絶対に通るべき道だと思ったんです。だからこそ、肉体的にも精神的にも、まだ若いうちに挑戦したいという気持ちがありました。

極限まで無駄を削ぎおとした究極の曲

読者のなかには、能はとにかく動きが少ない芸能だとイメージする方もいるだろう。そのなかでも「定家」という曲は、さらに動きが少ない曲だと想像してほしい。

「定家」は、式子内親王という高貴な女性と藤原定家の悲恋にまつわる執心を描いた能である。しかし、描かれるのは恋のただ中にいるふたりではなく、そこに立ち現れるのは、死後の式子内親王と、彼女の墓に巻きつく蔦葛(これは定家の愛執が具象化したものとされる)のみである。

馬野結ばれることのなかった恋の果てに、式子内親王には死後も定家の妄執がつきまとい苦しんでいる。そこに僧が現れて、式子内親王の霊を弔うのですが、彼女がそのまま成仏できるかと思えば、しないんですね。再び墓へもどると、たちまち墓は蔦に覆われてしまいます。

呪縛から逃れられたのに、なお定家の執心が残る墓へと戻っていくのは、式子内親王もまだ定家のことを愛しているからではないかと思います。魂が浄化された喜びより、苦しい愛が勝る。静かに見えて、ものすごく壮絶なロマンを描いた曲なんです。

そうした世界観と式子内親王の内面を、少ない動きと謡のちからで表現しなければなりません。また、式子内親王は高貴の女性ですから、立ち姿ひとつとっても気品が要求されます。

型付(かたつけ)という、曲ごとの動きを記した書物を見ると、「定家」には型がほとんど書いていないんですよ。けれど、軽い拍子をトンと踏むだけの型が、すごく重い習いになっていたりするんです。

要するに、舞にしても、謡にしても、内面的な要素が非常に強い。極限まで無駄を削ぎおとした型や謡に、なにを凝縮させるのか、どれだけ深みをもたせられるか……。女性を主役にした三番目物のなかでも究極の曲ではないでしょうか。

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