インタビュー
2019/12/28

観世流シテ方銕仙会馬野 正基さん

積み重ねたさきに見据える究極の舞台
「定家」の初演にあたって

思いどおりにならないからこそ、能に一生を捧げたい

物心つくかつかないかの頃から舞台に立ち、高校生のときに運命の舞台に出会ってから、能への思いをさらに深めてきた馬野さん。長くひとつのことを続けるのは、誰にとっても並大抵なことではない。そこにどのような思いがあったのだろうか。

馬野僕が能から離れることができなかったのは、やっぱり、能だけが思うようにできないからなのだと思います

僕はハマったらとことんのめりこむタイプで、趣味の分野でも、バンドや釣りなどいろいろなことをしてきました。なにかに夢中になっては、まわりから評価をいただくこともあって、ときには他の可能性を提示されることも幾度かありました。でも、その道を行こうとは思えなかった。

亡くなった師匠方の晩年の姿を見ていて感じたのは、「命を削って舞台に立っている」ということ。師匠たちはいつも、生きるために舞うのではなく、舞うために生きていた……そんな風に思います。僕もできればそうして生きていきたい。

能は、同じ演目を何日も続けていく興行形式ではない。毎日さまざまな舞台へと出勤して、ちがう曲に出るのは当たり前。ときには、一度も演じたことがない曲を父の代役で勤めなければならないということもあったという。

馬野付け焼き刃の稽古では絶対にいい能は舞えません。上手くなるには必ず積み重ねが必要です。稽古を重ねたからといって、必ず上手くなるという保証はありません。けれど稽古をすればするほど、ときに迷宮にはまって迷うことはあっても、下手になることはないと思っています。

死ぬほど能を愛して、能を舞うために命をかける。若い頃はよくわかっていなかったけれど、今はそれが真実だと思います。

能は普遍的なテーマを描いたヒューマンドラマ

演者がそこまでの思いをかける能とは、一体何なのだろうか。最後に馬野さんの能の捉え方、観客へのメッセージを聞いた。

馬野能はヒューマンドラマなんです。

死んだあと僕らの魂はどこへ行くのか。人と争うこと、恋に落ちること。不老長寿の願い、親子・恋人・夫婦・兄弟など心を通わせ合った人との別れ……。これらは今生きている人たちが直面するドラマであり、人生の普遍的なテーマでもあります。

私が属する流派・観世流には現行曲が200番ほどありますが、非常にバリエーションに富んでいます。「定家」のように無駄のない究極の表現をする能もあれば、闘いをアクロバティックに見せる派手な曲もある。とても「幽玄」という一言だけでは語りつくせない、多様な展開を持ったドラマなんです。

そして、そのドラマを提供するには演じる側に技術が必要です。だって、僕みたいなおじさんが絶世の美女になったり、神様になったりするんですから(笑)。見る人を本当に化かすには、それだけの技術が必要なんです。

ただ、僕たちの技術は、すべてを雄弁に語り尽くすものではありません。能を観て何を受けとるかは、ある程度観る人たちに委ねられているんです。だから、能を観るときは、想像力をフル回転させて、感性に委ねてみてほしい。

これから能を観る人に対してひとつアドバイスをするならば、その曲がどんな話を描いているのかくらいは予習したほうが良いでしょうね。これは別に勉強しなさいということではなくて、知識があるとまた見えるものが変わるから。見えるものが変われば、きっと能がもっと面白くなりますよ。

(終)

【花乃公案】

観世流シテ方の浅見慈一さん、馬野正基さん、北浪貴裕さんが主催する会。会名は世阿弥の『風姿花伝』の言葉より。能の道を歩むうえで重要となる公案(工夫)を極めたいとする同人の心構えが込められている。

2020年1月19日の第五回公演では、浅見さんが平家物語に題材をとった「清経」を、馬野さんが「定家」を、北浪さんが稲荷明神と刀鍛冶の名工による相槌が見どころの「小鍛冶」をそれぞれ務める。今回馬野さんのお話にあったように、三曲三様のバリエーションに富んだ見どころ満載の公演である。

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