能楽が持つイメージが「重」や「静」という言葉で表されるのならば、シテ方金春流の中村昌弘さんは、「らしくない」能楽師であるのかもしれない。
舞台での活動はもちろん、能楽の普及に奔走。居住する狛江市では講座や子ども向けの教室を開き、コミュニュティFMのパーソナリティを務める。同年代の五流儀シテ方能楽師で共同主宰する「流儀横断講座」では、個性的な面々を取りまとめるホスト役が定位置だ。舞台では主役を張るシテ方でありながら、聞き役や裏方でもマルチに才能を発揮する。
この夏、第五回となる「中村昌弘の会」を開催する中村さん。この公演は、元々昨年の6月に予定されていたが延期の憂き目となった。一年越しの舞台で上演される「角田川」は、テレビドラマの影響で奇しくも話題の曲に。時の運も味方につけて、能を代表する悲劇を中村さんはどう演じるのか。
1978年東京生まれ。2歳から能の稽古をはじめ、七九世宗家金春信高、高橋万紗、高橋忍に師事。中央大学法学部を卒業後、能楽師の道へ。狛江能楽普及会代表として地域に根ざした普及活動を行なう。
中村さんは能のお家ではありませんが、2歳からお稽古を?
中村能は元々、母が習っていたんです。幼い私を家に置いていくわけにもいかず、お稽古に連れて行くうちに、いつの間にか私も母のお師匠である高橋万紗先生に教わるようになったという次第で。時々子方として舞台にも立たせていただきましたが、プロになる考えなどなく趣味の習い事でした。それでも大人になるまで一度もやめることなく続けました。小学一年の時に、舞囃子の稽古で何十回やってもできないところがあって「もう嫌だ!やめる!」と言って帰ったことがあるんですが、次の週には普通に行きましたね(笑)。
途中で他に興味が移ったりすることもなく?
中村幼いときから喘息持ちで、体を強くするために水泳やサッカーなども習ったんですが、すぐに苦しくなってしまう。能だけは苦しくならないし、とにかく先生やまわりの大人が褒めてくれる(笑)。小4から大学まで部活では剣道をやりましたが、部活と並行して能のお稽古はずっとやっていましたね。声変わりしてからは高橋忍先生に習っていたのですが、受験の時期になり「頼むから休んでくれ」と先生に言われて休んだくらいです(笑)。そんなに面白かったのかと言われるとよく分かりませんが、あまりにも能をやることが当たり前だったんでしょうね。趣味を聞かれて「能」と答えるとみんなポカーンとする。人と違うことをしているという感覚がよかったのかもしれません。
プロになることを意識したのは?
中村大学の時です。法学部でしたので周りのみんなは司法試験に向かっていく。「また受験なんて嫌だなあ」と考えていた時に、忍先生が「うちは人数が少ないから、君が玄人になってくれると助かるんだけどなあ。食っていけないからなあ…」なんて呟くんですよ(笑)。20代は堅い仕事に就きながら能を続けることも考えたんですが、どうせなら20代のうちに能楽師として経験を積んだほうがいいと思い、先生にご相談しました。すると先生は、「能で食っていくのは大変だから、ご両親の承諾を取りなさい」と。
ご両親の反応は?
中村父は家業をやっていたのですが、昔から「継がなくていい」という考えでしたので、「やりたいことをやれ」と言ってくれました。ところが僕に能を始めさせた母の方が断固反対で(笑)。「何のために法学部に入れたんだ!」と怒っていましたが、最終的には認めてくれました。
中村プロの道を選んだと言っても、それまでと変わらず通いでお稽古をする生活。いわゆる書生生活は経験していません。その頃ちょうど流儀の「円満井会」の事務局員の前任の方が辞めることになって、その後釜に収まりました。多少でもお給料は頂けるし、定期券が支給されるので交通費も助かる。それで事務仕事をしながら食えない能楽師をやっていたのですが、ひとつの転機となったのは25、6の頃。国立能楽堂の第一期研究生になってお囃子の四拍子の稽古を始めました。各流儀から大勢参加していたんですが、段々減っていく。でも僕は時間があるからずっとやっていたんです。当時ほとんど面識がなかった髙橋憲正さん(シテ方宝生流)に「君はいつもいるね」と言われたくらい(笑)。笛3年、太鼓4年、小鼓・大鼓5年くらいやって、多いときは週8科目くらいありましたら、毎日寝落ちするまで覚え物をして、うつらうつらしながら稽古に行くという生活でした。
能で食べていけるという感触はありましたか?
中村自分を追い込む上でも、実家を出て一人暮らしを始め、5年で円満井会の事務員も辞めました。30歳で結婚しましたが、最初の頃は僕が毎日のように晩御飯を作るような生活でしたから、この先どうやって家族を養っていこうと思っていました。そんなある日、栗林祐輔さん(笛方森田流)と飲んでいたら、栗林さんが「何かイベントをやろう」と言うんです。「やらなきゃダメだ」って酔ってるからしつこい(笑)。でも言われたままに、実際に市の施設を訪ねていって「能楽師です。ワークショップでもやらせてください」と唐突にお願いしたら、役員の方が出てきて話を聞いてくださった。それで講座をやることになったのですが、意外に反響があって親子で40人くらい集まった。「これはいけるかも」という手応えがあったので、狛江能楽普及会というのを立ち上げて、定期的に講座をやることになったんです。一年ほどでお弟子さんも5人くらい取ることができました。
そこからは順風満帆に…
中村ところがです。そんな矢先に東日本大震災が起こりまして…。また一気に仕事がなくなりました。無力感の中でこんな時に能楽師は何をできるのかと考えて、チャリティイベントをやろうと思い立った。狛江市の古民家園の園長に話をもちかけたり、いろいろな働きかけをしているうちに、各方面の方々の目に留まるようになり、繋がりも広がってきました。国立能楽堂の派遣事業として狛江市の学校でワークショップをやらせてもらったり、文化庁の事業「伝統文化こども教室」をやったり。この文化庁のイベントは事業仕分けで既に打ち切りが決まっていて、その最終回を忘れもしない、雪の降る極寒の古民家園で狛江能楽普及会のメンバーである栗林さん、田邊恭資さん(小鼓方大倉流)とやりました。せっかく子どもたちとも仲良くなったのにこれで最後なんて寂しいなあと思っていたら、ある日ワークショップをやった学校の校長先生から手紙が届いたんです。そこには「子どもたちがお稽古を続けたいと言っています」と書かれていて。「これはどうにかしよう」とみんなとも話し合いました。会場を確保するため、近所の神社に掛け合いましたが最初はけんもほろろ。それでもあの手この手を使って会議室を貸してもらうことに成功し、能楽教室がスタートしました。それが10年前。先日も当時小学三年生だった教え子が、「大学に受かったよ」って話しに来てくれました。