インタビュー
2022/7/27

大蔵流狂言方山本則重さん 山本則秀さん

人が認めあい支えあう狂言の理想へ
 ― 則重則秀の会011/012

大蔵流狂言の家柄、山本東次郎家に生まれた山本則重さん、則秀さん兄弟。伯父は人間国宝・四世山本東次郎師、父は山本則俊師。生まれながらに伝統芸能の担い手としての重責を背負いながら、飾らない明朗な人柄は、狂言の太郎冠者、次郎冠者を地で行くよう。

9月4日に開催する「則重則秀の会」に向けて、インタビューを依頼したのは、例年より早い梅雨明けの頃。あまりの酷暑に「普段着で来てください」とお伝えした。当日、自転車で現れた二人は期待通りにカジュアルな姿。「らしいでしょ?」と笑う二人に心も緩み、何度も脱線を重ねながら(書ききれないのが残念!)楽しい話に時を忘れた。

則重さんの写真
山本則重さん

1977年生まれ。山本則俊の長男。1982年『伊呂波』で初舞台。2000年『三番三』披き。父および四世山本東次郎に師事。重要無形文化財総合指定。

則秀さんの写真
山本則秀さん

1979年生まれ。山本則俊の次男。1985年『伊呂波」で初舞台。2002年『三番三』披き。父および四世山本東次郎に師事。重要無形文化財総合指定。

 

「おもしろいことしない?」

初めてのお稽古の記憶は?

則重3歳か4歳だったと思いますが、父(山本則俊師)から「おもしろいことしない?」と言われたんですよ。それははっきり憶えています。子どもだから「おもしろいことしない?」って聞かれたらやりますよね。それで今に至るわけですが(笑)。

初舞台は?

則重5歳で『伊呂波』を。舞台の記憶はないのですが、装束をつけたりしたのは憶えています。うち(山本東次郎家)では初舞台でシテをさせるのが習わしなんです。

則秀うちの長男・則匡も8月6日、国立能楽堂で初舞台。『伊呂波』を勤めさせていただきます。まだ4歳(10月で5歳)ですが科白は意外に覚えられますね。本番の舞台でちゃんとできるかが問題ですが…。唐突ですけど私、子どもの時、天才って言われていたんですよ。

則重自分で言うところがダメでしょ(笑)。でも確かに神童と言われてましたね。普通の子方より声が1オクターブ高くてよく通る声だったんです。

則重規秀さんの写真

則秀兄は早く体が大きくなって小6で160cmくらいあったので、子方ができなくなったんです。私たちの下もいないので私が一手に引き受けることになって。もうすべてが名舞台(笑)。でもやっぱり天狗になったんでしょうね。忘れもしない、小6の時に出させてもらった新宿御苑の薪能。『首引』の姫鬼の役でしたが、大事な科白がひとつ飛んでしまった。帰ってきたら伯父の東次郎が鬼の形相で待っていて。小6相手にこんなに怒るかってくらい、こっぴどく怒られました。そこから挫折の人生ですよ(笑)。

則重6歳くらいになると『靭猿』の稽古が始まります。あれは本当に名作なんですが、子どもがいないとできない曲。従兄の泰太郎、則孝がいて私たちがその世代の最後なので、二人とも本当にたくさん猿を演りましたね。あの猿は、適当にやっているように見えるかもしれませんが、謡に合わせてどう動くかがすごく細かく決まっているんです。

則秀あと猿の役にはフリー演技もあるんですよ。でも、子どもだからどうしていいか分からない。「ほらノミがいるぞ!痒いだろう?」って言われてノミを探して食べたりするんですが、同じことばかりやっているとまた怒られる。

子方卒業後は?

則重中学に入るくらいで声変わりが始まると、出られる舞台が限られてくるので、ひたすら舞と謡の稽古になって、声の出し方とか基礎の部分を徹底的にやります。幸いなことに、山本東次郎家では、泰太郎、則孝、則重、則秀の若い4人がシテを勤める「青青会」という発表の場を年に二回、つくってもらえました。本来ならこの時期は、お客様のお目にかけられるような芸ではないのですが、お客様にも研鑽の場と理解していただいた上で舞台に立てたのは、大変有り難いことでしたね。

師匠としての東次郎先生、則俊先生はいかがでしたか?

則秀あまり知られてないかもしれませんが、うちはスパルタなんです(笑)。高校を出る頃までは、舞や謡といった基本の部分を父から教わって、それからは伯父が稽古を見てくれるようになりました。伯父と父ではまったくタイプが違います。父は体育会系。基本的には「盗んで覚えろ」というやり方で、理屈がない。教えている方が熱くなって「◎$♪×△¥○&?#$!」って怒るんですが、どこを直せばいいのか分からない。しまいには「やめちまえ!」って言われて、「やりたくてやってるんじゃないのに…」と思ったこともありました。

当時のアサヒグラフに掲載された父・則俊さんとの写真

則重子どもには、扇を持って構えているのが結構辛いんです。だんだん肘が下がってくると「肘!」って扇で叩かれる。扇がボロボロになるまで叩かれるんです。普段、舞台扇には神様が宿っているから大切にしなさいって言っているのに…といつも思っていました(笑)。伯父は理論的ですね。厳しいことには変わりないですけど。

武悪とリアル太郎冠者

則秀『武悪』という山本家が大事にしている曲があります。だいたいアドの太郎冠者を最初にやるんですが、他の曲とは違って主人が出てきても名乗りもせずただならぬ雰囲気で、太郎冠者に武悪を討つように言いつける。そこから武悪が出てくるまでに10分ぐらいあるんですが、その稽古に何時間もかけるんです。

則重一つひとつ、ここで足を止めて、切り返して、振りかぶって…という具合に型もタイミングも細かく決まっているんですが、これができるまでひたすらやる。シテの武悪が登場するまでにヘトヘトになるんです。でもそれだけの時間をかけることによって、その曲の大切さを伝えているんだと思います。それから何度も武悪はやっていますが、その度に1回目の稽古を思い出します。1回目の稽古って大事だなって思います。

お二人にとって東次郎先生の存在は?

則秀大きいですね。立場的なものもあるでしょうけど、何でも教えてくれます。だから今でも節目節目で新しい曲をやるときには、必ずお稽古をつけてもらいます。『武悪』の時みたいに、つきっきりで教えてくれますね。

則重舞台の後でも必ず何か一言、注意してくれますね。有り難いことです。

則秀よく舞台の行き帰りに伯父を車に乗せていくのですが、その間いろんな話をします。ほとんどが雑談ですけどね。祖父である三世東次郎の本にも「父(二世東次郎)には色々な話をしてもらった。師弟関係は、舞台と稽古だけではない。酒を飲みながら舞台以外にも色々な話をしてこそ本当の師弟関係だ」というようなことが書いてありましたが、芸以外のことも色々共有してこそ、師弟は心が通じ合うものなんだなと思います。

則重伯父の運転手は結構大変で。能楽堂に行く道はすべて決まっていて、混んでいたらこの道で行くとか、どの車線を走るかも決まっています。

則秀何も言われずに運転できるまで10年かかりますね(笑)。装束も「アレ出しておいて」って言われても最初はどれか分からなくて、毎回「違うよ!」って怒られて。

則重でもだんだんパターンが掴めてくると「この曲だとこれだな」と分かるようになる。舞台上でも、何を求めているのか、どういう間がいいのか、ということも日頃の何気ない会話から感じ取れるようになっていく。だから、普段から行動を共にするのが大事ですよね。弟子って本当に太郎冠者なんです。

則秀そう、私たち「リアル太郎冠者」なんですよ(笑)。

リアル太郎冠者のお二人の写真リアル太郎冠者のお二人
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