喜多流大島家の五代目として、広島県福山市に生まれた大島輝久さん。代々の系譜を受け継ぎながら、流儀を超えてさまざまな活動に精力的に取り組む、次世代を担う若手能楽師の中心的存在でもあります。
12月1日に開催される「第三回大島輝久の會」で上演するのは名曲『安宅』。能楽師としてのこれまでの歩みとともに、公演に向けた思いを伺いました。
1976年広島県福山市生まれ。喜多流大島家五代目。3才、「猩々」で初舞台。祖父久見、父政允に師事。上京後、塩津哲生に入門。海外公演にも数多く参加。2014年、国総合認定重要無形文化財となる。
能楽師として生きていくということに迷いはありませんでしたか?
大島家に能楽堂があるという環境に生まれて、物心のつく前に稽古もしていましたから、それが当たり前ではありました。父の修業時代の話もよく聞かされていましたし、小学生の高学年になる頃には、自分も中学を卒業したら上京するのだと思っていました。ところが、中学校に上がる頃、先々代のお家元がお亡くなりになって、住み込みで修業できるような環境ではなくなってしまい、結果的には高校まで福山で過ごすことになりました。
師匠であった祖父は色々な意味で大きな力を持った人でしたので、この人の言うことを聞いていればいいのだという気持ちでしたし、代々能楽師の家に生まれた人が思春期に持つような「(能を)やるべきかやるまいべきか」といった悩みはなかったですね。ただ、自分が祖父や父から引き継いだものを背負っていけるのか、という漠然とした不安は感じていました。社中会で、祖父や父が一日に何十番も仕舞や舞囃子を謡うのを見て、果たして自分にもこんなことができるようになるのだろうかと。一日中、能のことを考えているような祖父の背中を見て、自分がその戦力になれるのだろうかという不安はありましたね。
お姉様、衣恵さんの影響も大きかったのでは?
大島私にとって姉は常に前を歩く存在でした。姉は優等生で何をやってもよくできましたから、一学年下の私は何でも比較されました。学校の先生にも「お姉ちゃんはよくできるのにねぇ」と言われたりして。それがすっかり身に染みついてましたね。姉はよく可愛がられて、祖父や祖母がお弟子さんの稽古をしているときにも、膝の上で長い時間おとなしく聞いていました。こちらはいつも稽古場を走り回って障子に穴なんか開けたりするから「もう稽古場に入れるな」と言われるほどでした(笑)。
子方をやっても如実に能力の差がありましたが、自分でもそれを認めていましたし、卑屈にもならないほど比較されることに慣れていましたね。でも子方を卒業する頃になると、だんだん周囲の期待が自分に集まってくることを感じて「もっとしっかりやらないとね」と思うようになりました。
先々代、先代から受け継いだものを背負っていく。その手応えを感じたような転機はありましたか?
大島18歳で上京して本格的に修業が始まって、シテ方の稽古だけではなくてお囃子の稽古にも行くようになりました。最初はとにかく訳も分からず詰め込むように、舞や謡、小鼓、大鼓とそれぞれ別のものだと思って稽古していたのですが、5年くらい経った時に今までバラバラだと思ってたパーツがつながって一つになるような感覚が生まれてきたんです。例えるなら、地下鉄で移動していたときには分からなかったある場所と場所の位置関係が、車で移動した時につながって見えてくる、それに似た感覚でした。実は全部つながっているんだと。それが分かってから、自分はものすごく面白いことをやっているのだと思えてきて、夢中で能をやっていたように思います。
それまでは受動的だったのが能動的に変わって、自分の上達具合もはっきり分かるようになってきました。自分が何を良しとすべきか、基準となる価値観が自分の中にできてきたんだと思います。明らかに昨日の自分より今日の自分が上達していることが分かる。そうすると能がとても面白くなって、こうすればもっと上達できるという感覚が芽生えてきました。その感覚を大事に今までやってきたんだと思います。
修業時代の話を聞かせてください。
大島私が上京した時、先代のお家元の最晩年の頃で喜多流も過渡期にありました。私は塩津哲生先生に習うことになったのですが、塩津先生は私を含め10人くらいの弟子の稽古を見られていました。年間に80番近い曲の稽古をつけて、申し合わせと本番に出られていたと考えると想像もできない大変さですよね。
当時喜多流では私が一番下っ端で同年代はいませんでした。ただ他流には同年代の能楽師がたくさんいて、彼らと知り合うことができたのは幸いでしたね。互いの舞台を見に行ったり、お酒を飲みながら芸の話をしたりしました。同年代だからこそ、リアルな悩みや価値観など自分の思っていることを素直に話すことができる。宝生流の和久荘太郎さんや髙橋憲正くんは出会った時から飛び切りの能力がありましたし、亀井広忠さんの存在も大きくて広忠さんのもとに皆が集結する、そんな感じでした。
中でも観世流の坂口貴信くんとはよく飲みましたし、週の半分くらいは一緒に過ごしていた時期がありました。
坂口くんからは大きな影響を受けましたね。私はどちらかといえば、敷かれたレールの上を渋々ながら受け入れて歩いてきたのですが、彼は自分で自分の道を切り拓いてきた正反対のタイプ。18、19歳の頃から自分の将来のビジョンが能の世界に明確に定められていることに驚きました。それに比べると自分がいかにぼんやりしていたか。でも全然違うタイプだったから馬が合ったのかもしれませんね。互いにないものを求めていたんだと思います。彼がいよいよ宗家に入門するまで、兄弟のような付き合いが続きました。
ご自身の会をはじめた経緯は?
大島同年代の能楽師たちの流れに乗ったというところもありますが、自分の息子が子方をできるうちに『望月』という曲をやっておかなければという気持ちが強くありました。『望月』は子方が大きな比重を占める曲で、自分の子と演る機会を失ったら当分することができないと思っていましたから、子どもが小学校高学年になり機が熟したところで『望月』を演る会をしたいと。それが1回目の会でした。
1回目と2回目の曲は最初から頭にあったんです。2回目の『松風』はそれまでに何度もツレをさせていただいた曲。『松風』のツレは重い扱いでそうそう若い頃にできるものではないのですが、私は20代半ばから数えて10回ほどの機会に恵まれました。その都度、ツレを演じながら「すごい曲だ」と感じていました。『松風』のシテとツレは、連吟もあり気持ちとしては一心同体。『松風』のシテは、友枝昭世先生や塩津哲生先生をはじめ流儀を代表する先生が舞われることが多く、『松風』に対する思いやご自身の経験を伝えてくださるんです。それはツレをしなかったら聞けなかった話ですからね。自分がツレとしてずっと蓄えてきたものを活かすために、いつか自分の会で『松風』をやらなければならないというある種の切迫感がありました。
3回目は『安宅』です。
大島実は3回目には『隅田川』を考えていました。喜多能楽堂が改修工事中で使えないので今回は宝生能楽堂を拝借することになったのですが、宝生能楽堂は橋掛かりがとても長いんです。下見に行き、舞台を見た瞬間に「安宅をやるべきだ」という気持ちになって。能の曲にも位があって、自分が今できる曲には限りがあります。その中で最大限に背伸びをして自分の会でやらせていただけるのがギリギリ『安宅』なのかなと思いました。
『安宅』も子方が必要な曲ですが、私も一度だけ子方をやったことがあります。先代の喜多六平太先生の舞台に子方で出て、そこで謡をたくさん間違えた経験があるんです。私自身も子方で謡を間違えたのは後にも先にもその時限りですが、その時は何かの拍子に一つ間違えたら自分が何をやっているのか分からなくなって、やることなすことすべてつかえてしまうという具合でした。父は失敗を怒る人ではありませんでしたが、帰りの車で「なんであんなことになったんだ?」と聞かれたことをよく憶えています。子方時代の苦い記憶です。
今にして思えば、『安宅』の子方の謡は似た文句が多いんです。「いかに弁慶」で始まる似たような謡がたくさんある。当時は舞台の流れを理解していなかったので、一度間違えると取り返しがつかないんですね。今回は姪っ子の荒木七海(あらき ななみ)に子方をさせるんですが、自分の反省を踏まえて、稽古の折々に舞台の流れがどうなのかを教えています。
子方時代の息子に教えるときにも、子どもにとって何が作用して失敗する原因になるのかを考えて、子どもが不安になる要素をひとつずつ潰していくという作業をずっとやっていた気がします。あんなふうに教えてくれたら僕も失敗しなかったのに(笑)。
ツレでは『安宅』に出ておられますね。ツレから見た弁慶はどんな存在でしょうか?
大島『安宅』は同山としては何度も出ています。その度にシテのキャラクターはそれぞれ違いますね。熱血漢の兄貴分みたいな弁慶や、強い声ではないのに一言一言にすごく説得力がある弁慶もいます。年齢が近い人が演じるか、人間国宝級の先生が演じるかによっても弁慶像は全然違うものになりますね。色々な弁慶がいて面白い曲だと思います。
輝久さん自身の弁慶像は?
大島漠然としたイメージしかありませんね。言い方を変えると、あまり決め打ちしても良くない気がするんです。能楽師ならみな体感することだと思いますが、最初この曲はこうだろうと思っていたイメージが稽古するうちにどんどん変わっていくんですね。今では先人方の舞台も映像で気軽に見ることができますが、ある先生の舞台で演劇的なイメージを持っていた場面が、映像で見ると実は淡々と演じられていたのだと分かることがあります。淡々としていても謡の節回しなど技術の巧みさによって、演劇的に感じさせることもできるということなんでしょうね。
自分が曲に対して持っているイメージがどんどん変わっていく中で、本番までに自分がどういう弁慶像に行き着くのかというのは今でもよく分からないんですよ。熱血漢の弁慶と冷静沈着で頭脳派の弁慶が対極にあるとして、当日の自分がどこにあるのか。当日の空気感によって思わず熱くなるということもあるかもしれませんね。
どんなところに注目して観ればよいでしょうか?
大島稽古をしていて改めて感じるのは、当たり前のことですが弁慶が如何に義経を大事に思っているかということ。事あるごとに言葉を尽くして褒めるんです。身分を隠すために山伏で一番身分の低い強力に変装させても、「紅は園生に植えても隠れなし(紅い花一輪は雑草の中でも目立ってしまうものだ)」と言って褒めちぎります。それほどに大事な主君を殴打する弁慶の姿が人の心を打つのだと思いますが、弁慶の中に現代人の我々には到底理解できない忠誠心を超えた特別な感情があることは間違いないですね。
自分の何を差し出しても代えられないほどに義経を想う気持ち。それを舞台をご覧になっている方に感じていただけたなら、『安宅』は良い舞台になるのかなと思っています。
見どころ満載の『安宅』ですが、今回は同山を9人出します。冒頭のワキの台詞に「十二人の作り山伏」とありますが、同山9人と弁慶、義経、間狂言の強力で12人。言葉どおり正式にして最多の人数です。初めての『安宅』でもあり、息子が大きくなってなんとか同山ができる歳になったので、先輩の佐々木多門さんや友枝真也さんにもお願いして9人になりました。息子も含め、今回が初めての『安宅』という後輩も何人かいるので、私がこれまで先人方の弁慶に感じてきたものを何か伝えられるような舞台になればと思っています。
(終)
公演日:2024年12月1日(日)
会場:宝生能楽堂
時間:14:00開演(13:20開場)
弁慶と義経の物語を描いた『安宅』は、歌舞伎で人気の『勧進帳』の元になった曲。華やかな舞台展開で「能が初めて」という方にもおすすめ。
能楽シテ方喜多流の本拠地である喜多能楽堂は、老朽化による耐震補強などが必要となり、創建以来初となる大規模改修工事中です。価値ある能楽堂を解体せず存続するため、修復費の資金としての寄付を募っています。詳しくは喜多能楽堂ホームページ、または寄付のページをご覧ください。
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