能暦

2019/8/4

いざ能楽堂!その前に…  基本知識編(1)

〜能・狂言とは〜

能楽を観るために必要なものは、知識よりも感性と想像力。とは言うものの、最小限の予備知識がある方が楽しめることは間違いありません。初めて能楽堂に足を運ぶ方のために、5分で読める能楽の基礎知識をお届けします。

能と狂言

能楽とは「能」「狂言」の総称で、奈良時代に大陸から来た「散楽」と呼ばれた大衆芸能をルーツに、時代の多様な文化的要素を汲み日本独自の伝統芸能に昇華したものです。当時の「散楽」(あるいは「猿楽」)は今の大道芸のように雑多なものでしたが、その笑いの要素が「狂言」に引き継がれます。一方、「能」は宗教儀礼の中で歌舞を主体として発展していきます。

主に庶民社会の人間模様を描いたコメディー「狂言」と、武家貴族社会の故事を題材とした「能」は、全く違う性格のものでありながら表裏一体ともいえる存在。時代の変遷にも関わらず現代まで受け継がれ、今も多くの公演で対を成すように上演されています。このことは「能」と「狂言」が、時代時代の社会でそれぞれ異なる役割を持ちながら必要とされてきたことを示しているように思われます。

  • 小学校でも習うように、能は室町時代に観阿弥、世阿弥親子が大成させたことは知られていますが、当時からほとんど形を変えずに伝承されている能は、言葉も当時のままなので理解するのが難しく敬遠される傾向があるようです。古語による「謡」と抽象的な「舞」により物語が進行し、場面演出はお囃子と最小限の舞台装置によって行われることも、難解と思われる一因ですが、理解を想像力で補うことで楽しみが増す芸能とも言えます。

    世阿弥によって確立された能の典型的なパターンは、亡霊や精霊など超現実の存在が現れて未だ成就することのない無念や怨恨を語るもので、一般に「夢幻能」と呼ばれます。対して、生存する登場人物を主人公に現在進行形で物語が進む形式を「現在能」と呼んでいます。しかしこれはあくまでも後世の学術的な分類であり、その中にも実に多種多彩なストーリーがあります。形式美と思われがちな能ですが、その多様性もまた能の魅力なのです。

  • 狂言

    シリアスな題材を重々しく演じる能に対して、人間の愚かしさを笑いにした軽妙な喜劇が狂言です。人間国宝である四世山本東次郎則壽師の言葉を借りると、「謡」と「舞」で構成される能に対して、狂言は「科白」と「しぐさ」で構成される演劇。言い換えると、能の表現が抽象的であるのに対して、狂言ではより具象的(大袈裟と言ってもよい)表現を用いるのが特徴で、能よりは格段に分かりやすいと言えるでしょう。

    一見現代のコントにも似ていますが、「科白」や「しぐさ」にも長年伝統的に継承された厳格な「型」があり、演者による即興性がないことは能と同じです。とはいえ初期の頃の狂言はアドリブ的要素も多かったようで、時代とともに洗練され、無駄のない「型」を持つことで芸術性を増していったと考えられます。

  • 能の略式上演形式

    能には、曲の中の主要な部分を抜き出した略式の上演形式が様々存在します。その代表格である「仕舞」や「舞囃子」では、面や装束は付けず、紋付・袴姿のシテが舞います。シテと地謡だけで行うのが仕舞であり、囃子方が加わるのが舞囃子です。面や装束をつけない分、演者の「芸」を“素”の状態で鑑賞できる趣があります。