能暦

2021/5/28
インタビュー
金春流シテ方中村昌弘さん

駆け出し能楽師、イバラの道を行く

中村プロの道を選んだと言っても、それまでと変わらず通いでお稽古をする生活。いわゆる書生生活は経験していません。その頃ちょうど流儀の「円満井会」の事務局員の前任の方が辞めることになって、その後釜に収まりました。多少でもお給料は頂けるし、定期券が支給されるので交通費も助かる。それで事務仕事をしながら食えない能楽師をやっていたのですが、ひとつの転機となったのは25、6の頃。国立能楽堂の第一期研究生になってお囃子の四拍子の稽古を始めました。各流儀から大勢参加していたんですが、段々減っていく。でも僕は時間があるからずっとやっていたんです。当時ほとんど面識がなかった髙橋憲正さん(シテ方宝生流)に「君はいつもいるね」と言われたくらい(笑)。笛3年、太鼓4年、小鼓・大鼓5年くらいやって、多いときは週8科目くらいありましたら、毎日寝落ちするまで覚え物をして、うつらうつらしながら稽古に行くという生活でした。

能で食べていけるという感触はありましたか?

中村自分を追い込む上でも、実家を出て一人暮らしを始め、5年で円満井会の事務員も辞めました。30歳で結婚しましたが、最初の頃は僕が毎日のように晩御飯を作るような生活でしたから、この先どうやって家族を養っていこうと思っていました。そんなある日、栗林祐輔さん(笛方森田流)と飲んでいたら、栗林さんが「何かイベントをやろう」と言うんです。「やらなきゃダメだ」って酔ってるからしつこい(笑)。でも言われたままに、実際に市の施設を訪ねていって「能楽師です。ワークショップでもやらせてください」と唐突にお願いしたら、役員の方が出てきて話を聞いてくださった。それで講座をやることになったのですが、意外に反響があって親子で40人くらい集まった。「これはいけるかも」という手応えがあったので、狛江能楽普及会というのを立ち上げて、定期的に講座をやることになったんです。一年ほどでお弟子さんも5人くらい取ることができました。

そこからは順風満帆に…

中村ところがです。そんな矢先に東日本大震災が起こりまして…。また一気に仕事がなくなりました。無力感の中でこんな時に能楽師は何をできるのかと考えて、チャリティイベントをやろうと思い立った。狛江市の古民家園の園長に話をもちかけたり、いろいろな働きかけをしているうちに、各方面の方々の目に留まるようになり、繋がりも広がってきました。国立能楽堂の派遣事業として狛江市の学校でワークショップをやらせてもらったり、文化庁の事業「伝統文化こども教室」をやったり。この文化庁のイベントは事業仕分けで既に打ち切りが決まっていて、その最終回を忘れもしない、雪の降る極寒の古民家園で狛江能楽普及会のメンバーである栗林さん、田邊恭資さん(小鼓方大倉流)とやりました。せっかく子どもたちとも仲良くなったのにこれで最後なんて寂しいなあと思っていたら、ある日ワークショップをやった学校の校長先生から手紙が届いたんです。そこには「子どもたちがお稽古を続けたいと言っています」と書かれていて。「これはどうにかしよう」とみんなとも話し合いました。会場を確保するため、近所の神社に掛け合いましたが最初はけんもほろろ。それでもあの手この手を使って会議室を貸してもらうことに成功し、能楽教室がスタートしました。それが10年前。先日も当時小学三年生だった教え子が、「大学に受かったよ」って話しに来てくれました。