能暦

2020/4/6
インタビュー
宝生流シテ方和久 荘太郎さん

能との出会い

和久さんには「生粋の能楽師」という印象があったので、外から能楽の世界に飛び込んだと知って意外に感じました。どこで能と出会ったんでしょうか。

和久私の父は証券マンで能楽とは無縁の家なんです。幼い頃から剣道や居合といった武道は習っていました。でも剣道ってスポーツ剣道なんですよね。本当に斬れる剣の使い方ではない。そんなことに疑問を感じていた少年でした。当時は父親の転勤で名古屋に住んでいたんですが、中学生の時、居合の先生から能のチケットをもらったんです。「能には、武道に役立つ身体の使い方がたくさん隠されているから観ておいで」と。チケットを握りしめて一人で熱田神宮の能楽殿に行きました。そこで観たのが観世流の「道成寺」。乱拍子における小鼓の裂帛の掛け声とシテの「ハッ」という気合…、これは武道と同じだと膝を打ちました。本物の「斬れる」動きなんです。本当に感動しましたね。その時にいつか能の稽古がしてみたいと思ったんです。

それからテレビで友枝昭世先生の仕舞入門を見たりして独学を始めました。高校に入ったらなんと能楽研究部があって、これは運命だと。それで能をやり始めるわけなんですが、舞は好きだけども謡は嫌いだったんです。だって恥ずかしいじゃないですか(笑)。お囃子の稽古もやることになって、その中で大鼓にハマったんです。大鼓の気合ってまさに武道的ですよね。「これだ!」って思って、大鼓方になろうと決めた。それで河村総一郎先生に入門して、「プロになりたい」と言ったら「ダメだ」と言うんです。「お前は才能がないから」と言われるのかと思ったら「需要と供給のバランスが崩れるから」って(笑)。「お前はシテ方になれ」と。

そんなことがあって大鼓方は諦めたんだけど、シテ方にはなりたくなかった。謡わなきゃいけないから(笑)。でもある時、部活の顧問の先生にも「ワックン、シテ方にならないか?」と言われたんです。おかしいですよね。普通は学校の先生が能楽師になれなんて言わないじゃないですか(笑)。先生が言うには、東京芸大に行って、あわよくば家元に住み込みの内弟子として入り込みなさいと。後で分かったことなんですが、宝生流の辰巳孝先生のお声がけがあったようなんです。以前、部活の一環で名古屋の友好都市シドニーに仕舞を舞いにいくという機会があって、その時に辰巳先生の指導を受けたことがあったので、目をかけてくださっていたんですね。

私も転勤族の子どもだったこともあって、普通の仕事は嫌だと思っていたのでだんだんその気になってきて東京芸大を目指すことになったわけです。

その筋書き通りになったわけですが、内弟子の生活はどうでしたか?

和久内弟子の仕事は簡単なものでは留守番から車の運転、装束の管理といろいろ。そして家元の稽古を受けながら芸大に通うのですが、2年で単位を全部取れと言われていたので、寝る暇もありませんでした。建前上はね(笑)。遊びたい盛りですから悪い先輩に連れられて上野あたりによく繰り出しました。みんなで一つポケベルを持ってね。家元から呼び出されるとすぐに帰らなければならないから。

結婚が決まって独立するまで、12年も内弟子をやりました。これは宝生流では2番めに長い記録。宝生家では内弟子もみんな下の名前で呼び合う習慣があって本当の家族みたいでした。そのせいか自分が外から入って来たことを普段はあまり意識することがなかった。でも時々気付かされるんです。小さい頃からやってきた人たちに比べると私にはあまり役が回ってこない。でもそのハンデを自覚することが大事だったんですね。ある時、先代の家元とお酒を飲んでいた時に言われたんです。「お前は他のみんなとは違うんだ」と。その時は傷つきました。でも後になって、「人の何倍も努力しろ」と言われてたんだなあと気が付きました。