青春期に能にのめり込み、そのまま12年の内弟子修行。和久さんは「能の世界に入る時に他のことはすべて捨てました」と思いの強さを覗かせる。「仕舞と謡、それから装束付け。シテ方として以外のことは何もやってこなかった時期が長い。だから外から来た人間の強みである客観性やバランス感覚なんかもあまりないんですね。ちょっとおかしい」と自らを分析する。オフの日には変装して他流の公演を観に行くことも多いと言う。そんな和久さんが危惧するのは芸の変質である。
和久能がチラシを作ったりして一生懸命宣伝するようになったのはまだこの15年くらいのことだと思います。昔は宣伝するなんて感覚がなかったですからね。でも時代が変わって、今では「ワークショップ」という言葉が使い古されるくらいに普及ということを考えるようになった。そういった能の昨今を顧みないと芸の本質が変わってしまうのではないかと思ったりもします。普及、普及とそればかり考えていると精神がそうなってしまいますから。分かりやすく理解してもらおうというのは大事なことなんですけど、そのバランスが難しいですね。
今は普及向けの公演も多いですが、「声が大きかった、きれいだった」とか「動きが大きくて分かりやすかった」といった感想をよく聞きます。最初はそれで良いのかもしれませんが、本来の能は「大きければ良い」「分かりやすければ良い」というところに価値を置いていません。特に宝生流は最初からその上を舞台に求める流派。「声じゃなくて息で伝えろ」というような教えもあるように、少し禅問答的なところがある流派なので、最初に観る人には敷居が高いのかもしれません。
そんな中で私も絶えず模索を続けているわけですが、大事にしているのは風情と品。例えどんな卑しい人物を演じても、鬼であったとしても根底に品がなくてはならない。それが宝生流として能をやっていく上で、私が一番価値を置いているところです。でも「融」を舞った時にある批評家から言われたんですよ。「品だけじゃダメなんだよ」って。「融」は特に品を重視する曲ですから、そこに意識が行ってしまったんでしょうね。きれいなだけではダメなんですよ。こっちに行って引き戻され、あっちに行って引き戻され…、その繰り返しですね。
難しいですね。どんどん単純化されていくような社会の風潮の中で、こういった価値が評価されづらくなっているように感じます。
和久私が若い頃は、役を頂くと伝書を読むところから始めるんです。「右に回れ」って書いてあっても「どこが右なの?」ってよく分からない(笑)。そんなのを一つひとつ紐解きながら作り上げていったんです。ところが今の若い役者はすぐ映像を欲しがる。映像を見れば覚えるのは簡単です。でも見た通りの芸にしかならない。それは違うと思うんです。
職業の自由が当たり前の時代ですから、能楽の家柄に生まれても子方を卒業すると一度能楽から離れる人が多いですね。他のことをやって結果として戻ってくる人も多いけれど、私からすると「勿体ない」と思うんです。一番吸収できる年齢に稽古しないんですから。そういう意味で本当の修業ができていない能楽師が多いのも現実だと思います。
運命に導かれるように能楽師になった和久さんが、熊坂長範に導かれて「熊坂」を舞う「第7回 演能空間」。最後に意気込みを訊いた。
和久私が「熊坂」を舞うのは2回め。普通ならまだやっていない曲をやりたいところですが、前回から10年以上経ってまた違った解釈で演じることができると思います。それに今回は公演というよりは弔いだと思っています。会場に花を手向ける場所を作ろうかと思ったくらい(笑)。前回の「烏帽子折」をご覧になった方はもちろん、そうじゃない方にも熊坂長範の弔いにぜひ参加してほしいです。
(終)
公演日:2020年5月15日(金)
会場:矢来能楽堂
時間:18:30開演(17:30開場)
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